一悟術

一悟術のより詳しい歴史

弥生時代になると社会の階層化が進み、
伝承された人々の中でも支配者に迎合できる者のみが生き残っていくようになったそうです。

なかには邪馬台国の女王卑弥呼のように、
自身の能力を活用して国を統治したケースもありましたが、
古墳時代にかけてさらに衰退し、風化していったとのことです。

この知恵が復活したのは、聖徳太子が出現した飛鳥時代です。
縄文以前からの知恵である古神道的な要素と大陸から伝来した仏教的な要素が融合し、
国を統治する上で活用されるようになったようです。

こうして形成された感性主体の知恵に、
学問的な要素としての気学や陰陽道が加わって専門性が高まりました。
その融合された考え方を基に造成された都が平城京だと言われています。

形そのものは唐の都長安に倣いましたが、
羅城によって守られる軍事的なものではなく、
自然の中で機能するな政治的な都となりました。

ただ、この時代も統治者の域から出ない範囲での復興にとどまっていたと推測されます。

平安時代に入り、
桓武天皇による仏教政治との断絶が転機となり、
統治の知恵には古神道が色濃く出現するようになりました。

平安時代になると、この知恵は大きく二つの系統に分かれていきました。

一つは、祭祀を司る神官が中心となる神社神道の系統で儀礼が重んじられました。
もう一つは、儀礼的なもの以外の全てを受け持つ「何でも屋」のような役割を担った系統でした。

後者は大陸から伝わった儀礼を重視しない陰陽道と融合していく形となりました。
そしてこの役割を担う役人が陰陽師と呼ばれました。

しかし「何でも屋」であった陰陽師も次第に職能分担され、
大きく分けると、戦闘(国防)担当系統と治療担当系統の二つに分かれていくようになり
発展していきました。

ちなみに一悟術の知恵は、日向の治療担当家系で引き継がれたものの流れを汲んでいます。
平安時代後期以降およそ7~8百年の間、一子相伝で脈々と受け継がれてきたそうです。
ただ、縁のある人が訪れてくる程度の活動だったとのことです。

(ここから少しメインの話題から脇道にそれます。)
江戸時代中期になると日本独自の思想や知恵、文化を研究する国学が発達しました。
18世紀末には本居宣長が「古事記伝」を発表し、
日本古来の精神に戻ろうという考え方が学問として再び世に出るきっかけとなりました。

その後、国学者の平田篤胤が復古神道を説き、
幕末には天理教や黒住教、金光教などの幕末三大新宗教の成立につながりました。
この流れは尊王攘夷運動や国家神道にも大きな影響を与えました。

また、明治時代には幕末三大新宗教を含む教派神道(神道十三派)が宗教として公認され、
こうした流れは第二次世界大戦終戦まで続きました。

この幕末期からの神道隆盛となった時代も、
陰陽家は歴史の表舞台に出ることなかったそうです。

その理由は儀礼を重んじないことから教化を嫌う傾向が強かったためだと考えられます。
直系長子が口伝で教わることのみによって維持できるという世界観だったのです。
文面に著すことは禁忌事項ですらありました。

しかし、1980年代になると途絶える家系が増え始めたことをきっかけに、
門外不出となっていた知恵が次第に世に出てゆくようになりました。

そんな流れの中で、現代の科学的な知恵も織り交ぜながら再構築されたのが一悟術です。

主に心理学や波動医学、物理学と融合し、現代にありがちな生きづらさを軽減しています。

軽減するために

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