一悟術

一人でやる?or みんなでやる?ー自己成長にはどちらが有効?? 

自分を高めるために自己成長の取り組みをする場合、一人で行う方法とグループで取り組む方法が考えられます。

自分の内面に関わることなので、一人で取り組む方が相性がいいところはあると思います。

それに、そもそも自分の心の内部に対して、他人が直接働きかけることはできません。

結局、最後は自分自身の責任に帰結することは間違いありません。

けれど、自分以外の人と自己成長の取り組みをすることが無意味かというと、決してそうは思いません。

自己成長について、一人で取り組むのとみんなで取り組むのでは、どんな違いがあり、そのメリットとデメリットにどんなものがあるのか、まとめてみました。

 

1. 自己成長の取り組みとは

自己成長の取り組みとは

まず、内面の自己成長の取り組みとは、どんなものがあるかについて具体的に書いてみます。

まずは瞑想。これはスポーツで言えばランニングのようなもので、心を鍛える上での基礎力をつけるのに不可欠です。

瞑想は、基礎であると同時に非常に奥が深いものでもあり、瞑想だけで悟りに至ることも可能です。もちろん相応の時間とエネルギーが必要ですが。

続いて、感情に関するもの。精神的に円熟した人で感情に振り回される人を見たことがありません。

かといって、感情に蓋をするのもNGであり、感情とうまく付き合うための何らかのトレーニングが必要です。

そして、思い込み、固定観念に対する取り組み。自分の考えに固執することは、評価判断を通じて自分は正しく他人は間違っていると強く信じることです。

そのような態度では、身近な人との間さえ深い溝が生まれ、思い通りにならないことに悩まされ続け、人として成長していくことは望めません。

思い込み、固定観念を外して視野を広く持ち、様々な角度で物事を捉えることは、生きていくうえでも非常に重要で、やがては世の真理を捉えることにもつながります。

さらに、欲求とどう向き合うかも大切です。

欲求とは、仏教の考え方によれば、具体的に、①生存欲(生きたい)、②睡眠欲、③食欲(食べたい)、④性欲、⑤怠惰欲(ラクをしたい)、⑥感楽欲(音や映像など感覚の快楽を味わいたい)、そして、⑦承認欲(認められたい)となります。

欲求の厄介なところは、生物として自然なものなので、一概に否定するのは得策でない一方、野放しにすると際限なく求めてしまうところです。

いずれにしても、欲求のままに行動していては、人としての精神性が高まるどころか、人生が破綻してしまうのは明らかでしょう。

欲求への向き合い方には、日常のなかで、スケジュールを立てて運動や学習など心身を養う行動を習慣化したり、暴飲暴食を避け早寝早起きを心がけるという基本的なことから、山籠りや滝行など厳しい修行によって欲求をねじ伏せるということまで、幅広いものが含まれます。

いずれにしても、欲求をどうマネジメントするかどうかは、自己成長という道を歩む上で大きな課題と言えます。

以上、自己成長の取り組みがどんなものか、なんとなく明らかになったでしょうか。

 

2. 一人で取り組むメリットとデメリット

初めて自己成長に取り組む場合、自分で本を読んだり講演に参加するなどしてやり方を学んだ上で、一人で行う人が多いと思います。

ですので、まずは一人で取り組む場合のメリットとデメリットについて考えてみます。

(1) メリット

(イ) 不要な同調圧力が働かない

多くの人が学校教育、そして、職場などにおいて、暗黙または明示的に、無意味に集団に合わせることを要求されて嫌な思いをしり傷ついた経験を持っています。

先述したように、自分の内面を尊重しつつ率直に向き合い、時には痛みを感じることもある自己成長の取り組みにおいて、そのような同調圧力は命取りです。

自己成長を志向する集団において、そのような力学が働くことがあってはならないと思いますが、残念ながらそういう話をよく聞くのが現実です。

社会全体の意識水準が十分に高いとは言えない今日、自己成長のための集団であっても、承認欲求を満たしたいがための争いが絶えないように感じます。

具体的には、集団のリーダー(グルと呼ばれるような存在)に気に入られようという競争、集団の中で認められたいという競争などです。

これでは、学校や会社などの一般社会と変わらないか、より内面深くまでアプローチする分かえって傷が深くなるリスクもあります。

全部の集団がそうとはもちろん言いませんが、少なくとも一人で取り組めばこのような悪影響はとりあえず回避することができます。

(ロ) 依存しない

自己成長とは、一人の人間として立ち、主体的に生きることを意味します。

当然、取り組みにおいて誰かに依存していては、自己矛盾に陥り、本当の意味での成長は望めません。

もちろん誰しも、自分より優れた存在への憧れや何とかしてほしいという多少の欲求はあるでしょう。

よい導き手はきっかけがそうだったとしても、自分の元に集った人を自立へと導きます。

けれど、集団のリーダー自身が自分を十分に認められていないと、他人から承認を得ることで自分を満たそうとしてしまいます。

未熟な教祖の新興宗教によくみられる構図で、依存したい信者と依存されたい教祖の持ちつ持たれつの関係となってしまっては、精神的成長から程遠いのは明らかです。

一人でやっている限り、依存しようにも相手がいないわけで、このような依存から自由でいることができます。

(ハ) 他人に惑わされない

集団の中には、優れた人がいます。そういう人に感化されてよい影響を受けることはもちろんあります。

一方で、その人を羨ましく思うあまり自分以外の者になろうとする努力は良い結果をもたらしません。

そうこうするうちに自分がわからなくなってしまうこともありがちなことです。

私たちは、成長過程で他人の価値観を取り入れて影響されることに慣れてしまっているので、あえて一人になって他人の影響を受けないところに身を置くことも、意味があることだと思います。

(ニ) やった感がある

誰か他の人に頼らず、自分一人の力でやっているわけなので、自己成長がうまくいった場合その結果に対して、俗にいうやった感があります。

別の言葉で言うなら、充実感や達成感です。自己肯定感や自己重要感が高まるかもしれません。

ただし、過度にやった感を追い求めることは、自分が自分がというエゴを増長させる結果を招くこともあるので、求めすぎることのないよう注意が必要です。

 

(2) デメリット

一方で、一人でやることのデメリットももちろん存在します。バランスよく判断する上からも、両方見ておくことが必要です。

(イ) 他人からの刺激が得られない

人から得られる刺激とは例えば以下のようなものです。

まず、インスピレーション、ひらめき。他人の言葉にちょっとしたヒントをもらうことから、魂を揺さぶられ自分の使命に目覚めることもあり得ます。

また、人は鏡というとおり、相手を通して自分の姿に直面することもあるでしょう。自分が嫌いな相手と同じことをしていることに気づいて愕然としたり、相手の反応から自分がどのような投げかけをしているのか、自覚したりします。

自分の姿は自分では見えず、他人の言動による刺激で思わぬ反応がつけ加わることもあるので、自己成長の機会としては大きなヒントになります。

単純に、やる気、元気をもらうこともあるでしょう。バイオリズムによって気持ちにムラができるのはある程度避けられませんが、その波を極力小さなものにすることができます。これは集団の大きな力です。

最近私は、自分の使命にコミットした人の言動の力強さ、影響力の大きさに目を見張る体験をしました。まさに、大地をも動かすような力でした。

そういういい影響も集団の恩恵ですが、一人でやる限り、そうした恩恵は得られません。

(ロ) 行き詰まりに弱い

自己成長に取り組んでいると、調子よく進む時期とそうでない時期があります。

そうでない時期というのは、恐れや抵抗から一歩も進めない感じがしたり、同じところをぐるぐる回ったり、やってることを無意味に感じたり、何もかもやめたくなったりさまざまです。

このような時、自分の状態を説明して、一歩抜け出すために適切な助言を与えてくれる環境があれば非常に有効です。

当然ながら一人の場合、こうした助けは期待できないので、自分で何とかする必要があります。

立ち止まったまま時間を無為に過ごしたり、試行錯誤で何回も痛い目にあったり、最悪あきらめてしまうようなこともあるでしょう。

このようなデメリットがあることも知っておくとよいでしょう。

 

3. 合唱で実感したグループで何かをすることの意義

一方、集団で取り組むことのメリットとデメリットについては、基本的に一人のメリットデメリットをひっくり返して考えるとよいのです。

ここではそれをせず、私自身が、ある合唱団で実感した集団で何かをすることの意義についてまとめてみます。

グループで行うことの意味については、自己成長の取り組みにも共通する部分があるはずだと思うからです。

(1) 合唱の嫌だった点

私はもともと合唱が好きだったわけではありませんし、本格的な合唱の経験もありませんでした。

中学の文化祭でクラス対抗で歌ったぐらいです。そんなバックグラウンドですが、合唱にはあまりいい印象はありませんでした。

私が合唱に抱いていた一番の印象は、「いい子ちゃん」でした。模範的、優等生というイメージなんですが、決められたとおり行儀よく歌うという感覚だったのです。

ひいては、それが窮屈である、個性が出せないというイメージにつながっていました。

リズム、音程、音の長さ、、、勝手にアレンジして個性を出したらハーモニーが乱れるわけで。

きっと自分らしさが出せないことに対する痛みというのもあったかもしれません。

私に限らず、人の目を気にしたり、人に合わせることを優先したりして生きている人は多いでしょう。

実際、合唱が合わない一つの要因にもなっているようです。

また、ソロの方がかっこいいという価値観も作用していたと思います。

これも社会的刷り込みですが、人に頼ることなく独力でやることを礼賛する風潮ってあると思います。

とにかく、合唱に対してはそんな印象だったので、聞くのも好きではありませんでした。退屈なものと感じていたのです。

そんな様子だったので、合唱として集団で歌うことに、まったく価値が見出せませんでした。

一人でカラオケの方がよかったわけです。そう、一年前までは。

(2) 合唱を通じての新しい体験

それが、ある企画に参加したことで、合唱に関して全く新しい体験をしたのです。

それは一悟術の関係者で合唱団を編成し、毎年エジプトのカイロで行われる東日本大地震の復興を応援するコンサートに出演するというものでした。

合唱に関しては上に書いた通りですが、歌うことについては興味がなかったわけではありません。

自分で音楽をすることには縁のない人生でしたが、自分を表現する手段としての歌には魅力を感じていました。

それで合唱団に参加し、半年の練習を経て無事日本代表として?歌を披露できました。

海外のオペラハウスの舞台でエジプトの人を前に歌う体験は面白いものでしたが、記事のテーマである集団で何かすることの面白さという点では練習で技術を磨いていく過程の方が印象に残っています。

このあたり、自己成長に通じるところがある気がします。

合唱の練習を通じて体感したことを書いてみます。

(イ)自分が消える心地わるさ

合唱に没頭すると、自分という個人がなくなっていく感覚がありました。

個人には、名前があったり立場や肩書き、こんな人というパーソナリティがありますが、そういうものがすべてなくなり「一人の人間」、いえ、その時は楽譜に合わせて忠実に声を発していただけであり人間ですらなく、「一個の楽器」といった方が正確かもしれません。

一般的にアイデンティティは、自分が自分であることの証明であり、価値の源泉であったりします。

それを手放すというのは、自分として生きてきた経歴や背景、自分が自分である目印として服装のようなものを脱ぎ去り、裸になったような感覚でした。

ですから、最初は心細さや反発が湧いてきました。言葉にするとしたら、「誰でもいいなら、自分じゃなくていいじゃないか」といったものでしょう。

これはアイデンティティに自己価値を置いている人なら、ハーモニーを乱すという形で、無意識的に拒否するだろうと感じました。

また、以前私が合唱を嫌だと感じていた本質的な理由のような気がします。

けれど、その正体をきちんと捉えることにより、そこから抜けやすくなるように思います。

(ロ)自分が消える心地よさ

一方で、前項とは裏腹に、自分が消えていくことの心地よさみたいなものも感じました。

スピリチュアル的に表現すれば、大いなる存在に対して、自分という自我(小我)がサレンダー(降参)し、明け渡すような感覚かもしれません。

自我が頑張っているうちは悟りは開けず、頑張ってもどうにもならず、あきらめて身を投げ出した時、悟りが訪れると言われることもあります。

この身を投げ出す感覚が、無重力状態とか、自分が溶けて消えていくとか、力を抜くことで初めて自由になれるとか、無の境地とか、そんな感じでした。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」って言葉もありましたね。

自分という鎧を脱ぐという表現を読んだこともあります。自分を守ろうとする意識は、同時に敵を生み出します。

守ろうとする思いを手放すことで、真の安心が得られるというパラドックスです。

(ハ)大きな流れに抱かれる安心感

自分を手放す不安感や不快感を通り過ぎると、今度は大きな流れに抱かれる安心感みたいなものを感じ始めます。

指揮者に導かれて、川の流れのように向かうべき方向性があるなかで、パートとパートが時に離れ、時に一緒になり。

個人の声というバラバラのものが、メロディーとリズムとハーモニーを通して一つになり、大いなる何かが形成されていきます。

これこそ、決して一人では味わうことができない合唱の醍醐味なのかもしれません。

自己成長の分野でも、こうした大きな流れや存在に溶けていく安心感が存在するように思います。

(ニ)役割を果たす

と同時に、個としてはやっぱり自分のパートをしっかり歌い上げる、つまり、役割を果たすことの充実感みたいなものもあります。

各パートが使命を果たすことで全体としての美しさが完成するわけです。

個性があるとかないとか、変なこだわりはどうでもよくなり、パフォーマンスの純度をより高めることだけを考えるようになります。

その状態のなかから、個を超えた個性のようなものが立ち上がってくるのかもしれません。

(ホ)違いを楽しむ

この他にも、合唱をしているとソプラノ、アルトという女声パートの声そのもの、旋律、音の高さの美しさを感じます。

一方、男声には男声の魅力があり、その差や違いが楽しくもあります。

これも今まで当たり前と思っていたものに、改めて出会い直すような新鮮な感覚で、なんだか面白いと感じました。

考え方や価値観の差は優劣や正しさの争いに展開しがちですが、ここにも違いを認め尊重し、適材適所が調和を生むというふうに進化していきたいところです。

(ヘ)みんなで作り上げる

そして、最後に、一つのものをみんなで作り上げることは、純粋に楽しいし、喜びでもあります。

まぁ一言で言ってしまえば、ワンネスということになるのかもしれませんが、それへの憧れや惹かれる思い、反発や居心地の悪さもありつつ、それらを内包して到達する境地なのかなと思います。

もちろん、レベル、階層性というのがあって、今のレベルで感じるものと、もっと上の次元で感じるそれはまったく別物でしょう。

プロのオーケストラの人が感じているレベルなどは想像もつかないものでしょうが、大事なのは今感じていることを大切に、一つ一つステップアップしてばいいのかなと思います。

以上がエジプトの合唱団で感じたことですが、集団でしかできないことの価値みたいなものを感じてもらえたらいいかなと思います。

 

4. まとめ

自己成長には一人でやるメリット、デメリット、グループでやるメリット、デメリットがありますが、やはり、集団でしかできないこと、というか、集団を通じることで簡単に体感できる分野があるように思います。

もしかしたら、それこそが、私たち人間が社会を形成して生きる意義かもしれないと感じました。

一人でやる自己成長の取り組みもいいですが、このような視点もあることを参考にしていただければと思います。

以上

祇場駿矢

京都市出身。
京都大学法学部卒業。
大学卒業後、現在のメガバンクに入社、26年間勤務。

ビジネスの現場で産業調査や大企業の事業再生、富裕層取引等を担当、多くの企業経営者、富裕層顧客と接する中で、世の中の流れ、リーダーシップ、お金の本質等について考察を深める。

少年期より「人はなんのために生きるのか」「人はどこから来てどこへ行くのか」を自らに問いかけてきた。バブル世代でいったんは世の中の価値観に染まるが、会社オンリーの人生に生きる意味を見失って挫折を味わう。

魂が震える生き方を追求する中で一悟術に出会い、自身や周りの体験から、自己成長の最高のツールという確信に至り、独立起業を果たし、誰もが物心共に幸せになれる方法として「悟りを目指す生き方」を伝えている。

豊富な社会経験、懐の深さから、経営者、投資家、コンサルタント、カウンセラー、コーチ、医師、作家、セミナー講師、会社員、主婦など、多くのクライアントから支持されている。

著書「先行きの不安から自由になる『お金と心の法則』」(フォレスト出版)

HP:https://fillz.biz

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