今年3月の前半にエジプトまで合唱に行ってきました。
はい、みんなで歌う合唱です。
当初は自分でも物好きだなあと思いましたが、今ではとても意義があったと感じています。
私も昨年初めて知ったのですが、エジプトでは、東日本大地震の追悼と復興を応援する合唱大会が毎年開かれています。
日本の資金援助で建設されたオペラハウスで行われ、日本に縁のあるエジプト人や在留邦人など参加者は数百名にのぼります。
その大会に、私と同じエネルギーヒーリングやリーディングをやっている人や受けている人30数名で、今を生きる人合唱団として参加してきました。
(会場となったオペラハウス)
1.練習で感じたハーモニーへの抵抗
約半年前から月1回ペースで集まって毎回2、3時間程度練習してきましたが、日本での最後の練習が印象に残っています。
私も含めてちゃんとした合唱経験のない人がほとんどで、最初はかなりバラバラだったんですが、だんだんと合唱らしいハーモニーを響かせられるようになってきていました。
その時、一生懸命に歌っている中でふと感じたことがあります。
あたかも自分が一つの楽器かなにかで、この合唱の中に組み込まれたパーツであるかのように。
それは予想に反し、決して心地よいものではありませんでした。
個性を奪われてモノにされたような、楽譜の音符や記号のとおりに振舞うことを余儀なくされ、指揮者の指示にも逆らってはいけない窮屈さ、といった感覚です。
歌がバラバラだった時はそうでもなかったんですが、合唱が合ってくるにしたがって、他の可能性は許されないように感じて、窮屈度が一気に高まったように感じました。
以前、私は、合唱を優等生的で面白みがなく、あまり好きではないと感じていたのですが、背後にあったのはこういうことだったのかと合点がいきました。
ネットで「合唱 個性」といったキーワードで検索すると、合唱に個性はないのか?といった内容の記事が見つかります。
意識できるかどうかは別にして、実は多くの人にそんな感じを受ける傾向があるのかもしれません。
その原因は、おそらく、幼少時に自分の意に沿わないことを親の都合で強制された際に生じたインナーチャイルド(心の傷)にあるのでしょう。
無意識の抵抗から、調和を乱したくなるのも十分頷ける話です。
しかしながら、この合唱団のメンバーは全員がインナーチャイルドとさらに根っこにあるバーストラウマ(誕生時の心の傷、自分の存在意義に関わるもの)のヒーリングを受けています。
それが合唱の上達に影響を与えていたようなのです。
もともと指揮者からは、大人の素人集団にしてはあり得ないほど吸収が早いと言われていました。
そして、練習風景を観覧されたプロの演奏者の方からも、「ここまで素直に指導内容を受け取れる集団は見たことがない」という言葉をもらったのです。
身内の欲目ではなく、客観的にもそうであったのは間違いないようです。
心の傷が癒されていることが、無用の反発や不調和な反応を生まないと考えられます。
たかが素人の合唱でそうなのですから、小さくは職場や家庭での人間関係、大きくは国同士の関係など当事者がより重要と考えることにおいて、どれだけ無用の軋轢が生じていることでしょう。
これを想像するに、世の中に諍いや争いが絶えないのもむべなるかなではないでしょうか。
(ナイル川とカイロ市内の風景)
2.ワンネスへの憧れに内在する落とし穴
スピリチュアルな人々の間で、「ワンネス」という状態は原初でありゴールであるのかもしれません。
簡単に言うと、ワンネスって素晴らしい、という考え方です。
ジョンレノンがイマジンで歌っているように、平和と調和の中での統合を理想とする考え方は一般的でもあるのでしょう。
You may say I’m a dreamer (君は僕を夢想家と言うかもしれない)
But I’m not the only one (でも僕は一人じゃない)
I hope someday you’ll join us (いつか君も仲間になって)
And the world will be as one (世界は一つになるんだ)
私もそれに近い考え方でしたが、今回の合唱体験を通じて、ワンネスへの強烈な抵抗が存在することに気づきました。
これがブラインドになっていると、統合に向かうことを無意識に避けてしまうことでしょう。
それが、統合欲求に対する分離欲求と言われるものです。
知識としては知っていたけど、強烈に実感したというところです。
歌っている時の感覚を具体的に表現すると、それはカラダという全体のなかにおいて、自分が1個の細胞になったかのような感覚でした。
それは自分の価値と思って身につけた「自分はこれこれという者である」というアイデンティティや個性などが全て削ぎ落とされ、裸になったような。
自分は何者でもなく、個であることの意味が奪われ、全体に飲み込まれるような感じがありました。
アイデンティティこそ個体としての価値の源泉と言えるものなので、それがなくなると自分に何の価値もないように思えても不思議ではありません。
また、個体意識である自我やエゴにとっては、自分の消滅を意味するということです。
人によっては強い恐れを感じるのも無理からぬところでしょう。
(エジプト人の合唱コンサート参加者)
3.統合欲求と分離欲求の調和の展望
けれど、すべてのアイデンティティの手放しは、覚醒、悟りのステップとして不可欠です。
なぜならば、「自分は何者でもなく、そして、すべてである」
これが目覚めた人の自己認識だからです。
そのためには特定のアイデンティティは、現世的にどんなに立派な肩書きだったとしても、邪魔者でしかないのです。
そこまで思考が展開して、「では個体としての存在価値とは何か?」という疑問が浮かびました。
人は存在するだけで無限の価値があるのは私にとっては大前提ですので、それは何だろうと思ったわけです。
ここで話が合唱に戻りますが、どなたかが合唱の要諦を「協調と責任」と書かれていました。
協調が全体のハーモニーに同化することとしたら、責任とは?
言うまでもなく、自分のパートをしっかり歌うことです。
楽譜や指揮者の意図のとおりに、音程、拍やテンポ、リズムを合わせて、大きすぎず小さすぎず、混声合唱ですので、他のパートの歌声も聴きながら。
各パートがそれぞれの責任を果たすことで、初めて全体としてのハーモニーが生まれます。
すばらしいハーモニーを響かせることは、指揮者やメンバー一人一人の意思であり、同時に自分の意思です。
自分は全体の一部であり、全体はまた自分自身を映し出しているのかもしれません。
そして、合唱団では、同じパートを数人で担当しますが、もしかすると。。
もしかすると、現実のこの世界では、一人一人が自分一人のオリジナルなパートを担当しているのかも。
一人一パートの自分にしかできない役割をしっかりを果たすことで、この宇宙に壮大なシンフォニーが鳴り響くのです。
それこそ、ちっぽけなアイデンティティなど比較にならないくらい、私たち一人一人が生まれながらに持つ偉大な個性と言えるのではないでしょうか。
ちっぽけとはいえ自分のコアと思ってきたアイデンティティを手放すことはとても不安です。
自分がなくなってしまうような気持ち悪さに襲われることでしょう。
でも、その先に、個としての真の自分の役割、価値に目覚め、全宇宙のハーモニーの一部となる体験が待っているのです。
覚醒、悟りとは、なんとスリリングで面白く、興味深い生き方であるのかと、改めて目を見張る思いがしたのでした。
(日本の資金支援で建設中の新・考古学博物館)
4.まとめ
最後に、今回の合唱団の意義について、振り返ると、自分たちが感じている以上に大きいものであったのかもしれません。
もちろん、たかが合唱です。
しかし、上述したように、たかが歌のことで、合唱の肝となる「協調性」を保つのが受け入れられないことなら、実際の社会での営みにおいては、なおさらでしょう。
今回の舞台は、人類の歴史上最大の紛争の地である中東の一角で、日本の和の心を世界に知らしめた東日本大震災の追悼の会という場でした。
そこで、人類の宿痾と言えるバーストラウマ、インナーチャイルドが癒えた状態で調和と共鳴の歌声を響かせることができたことにも、深い意味があると感じたのでした。
関係してくださった方、応援してくださった方にも感謝です。
以上